[前編] 22歳のUCバークレー生が描くこれからの未来とは





後藤香奈: 1996年生まれ。幼少期はバレエに励むが、ある出来事でバレリーナになる夢を諦める。書店で偶然出会ったある一冊の本に魅了され、建築家になると決意。11歳の夜に人生計画書を30歳まで描く。22歳の現在は描いた通り、UCバークレーで建築を学んでいる。卒業後はニューヨークにへ移住し、建築事務所での経験や大学院への入学を志している。

幼少期から渡米まで。 人生計画書を11歳で描き、自分の道を決める。

三浦: これまではどのように過ごしてきたのですか?

後藤: 2歳の時からクラシックバレエをやっていました。きっかけは、お父さんが「香奈がおれみたいにO脚になるのは嫌だからバレエでもやらせておくか」というのが始まりです(笑)

もし嫌だったらやめようって家族全員で話していたのですが、私自身がそれにはまりこんでいったんです。

三浦: 自分からはまっていったんですね。

後藤: 気がついたらという感じでした(笑)。それから、小学校2年生の頃くらいから色々なバレエ教室を転々とするようになったんです。

そこで、新しく入ったバレエ教室は今までのところと意識が違っていて、みんな本気でした。もちろん私も「バレリーナになる!」という思いで本気で取り組んでいるため、とにかく生半可な気持ちでは続けることが難しい環境だったなと思います。

三浦: 気付いたらはまって、気が付いたら結構本気だったんですね。

後藤: 本当そんな感じでした。1つのことに集中するとずっとそれにはまっちゃうみたいな。

三浦: たしかに、いつ休むんだろうって思います。

後藤: 1つのことにものすごく集中してしまうんです。

例えば、目の前にある青ペンについての仕組みを知りたいと思ったらそれについてだけものすごく調べたり夢中になるのですが、その横にある消しゴムに関してもそう思うかと言ったら、もはや存在を忘れるほど。それほどまでに青ペンだけのことを考えるんです

また、小さい頃好きだった遊びが、ハンガーにかかってるお父さんのYシャツのボタンを外しては留め、外しては留め、というのを延々と繰り返す遊びをしていました(笑)。

三浦: それ初対面の時に言っていて、何か共感できると感じたのを覚えてます(笑)

後藤: (笑)。でも、そういう変な行動が今にすごく役立っていると思うんです。

その経験から、興味を感じることにはものすごくのめり込むという自分の特徴をなんとなく理解できたんです。だからバレエに関してもバレエに100%以上の力を注いでいました。

そうしているうちに、別のバレエ教室の方にお声掛けを頂いて、掛け持ちという形で2つの教室に通うことになったんです。

三浦: すごいですね。

後藤: でも実際、バレエでは活発に行動する反面、小学校では恥ずかしがり屋で、お手てはずっとお尻の下って感じで(笑)。

その上、友達作りが下手だったし話すのも苦手だったので本ばかり読んで過ごしてました。

三浦: そうなんですか?今の姿からは全然想像がつかないです。

後藤: それもあって、いじめではないですが、少しいびられていた気がします

だから一人遊びみたいなことに夢中になって、ずっと空を見上げて雲を眺めていたり、レゴに夢中になっていたり、シルバニアファミリーで遊んでいたりしていました。

三浦: たしかシルバニアファミリーの遊び方が変わっていると(笑)

後藤: シルバニアファミリーの人形とかではなく、家具の配置の方が好きでそっちばっかりいじっていました。

三浦: うさぎちゃんはというと…。

後藤: うさぎちゃんに関しては着せ替えもさせず放置な感じでした(笑)

さっきの青ペンと消しゴムの話ではないですが、家具や食器など、物体的なものへの興味の方が強かったんです

内気な性格から社交的に。~どのような変化があったのか~

三浦: 今の姿から昔のキャラクターを想像することは難しいと感じられるほど外交的だなと思いますが、どのように変わっていったのですか?

後藤: 自分が自分としての個性や感情をどうして出せたのかを考えた時、やっぱりバレエに助けられていた気がします。当時の自分のルーツというか。自分の身体や精神を作り上げてくれたのも全てバレエでしたし。

また、自分より何か強いモノを持っている人を探す洞察力みたいなものも鍛え上げられた気がしています。

自分が持っていたり、思っていた基礎の部分を応用まで掬い上げてくれたのはバレエの経験で学んだ全てが今バークレーでやっている建築の勉強に役立てられているかなと思っています。

現代の住居スペースにおけるボリュメトリックスタディ。

三浦: 小学生時代はずっとバレエを続けていったのですか?

後藤: はい。小学3年生の頃からは、バレエに加えて塾にも通い始めました。

小学校がどうしても好きになれず、窮屈だな、嫌だな、と思っていて、でもこのまま中学校が公立だと環境が変わらないなと思ったんです。

また、本当はこれが最大の理由なのですが、公立の小学校のお手洗いが汚くて(笑)綺麗なところに行きたかったんです(笑)。それらがきっかけで、私立の中学校を受けようと思ったんです

母にそれを伝えると、「受験をしなきゃ私立には入れないんだよ」と言われましたが、即座に「受験する!」と答えたのを覚えています。

その決断に母は少し驚いた様子を見せましたが「あなたがやるというならいいよ」と言ってくれ、応援してくれた事がすごく嬉しかったです。

それからは、地元埼玉の塾に通って、バレエは東京都内にある教室に通っていたので、往復2時間くらいの移動をほぼ毎日するようになりました(笑)。

三浦: 小学生で!?僕が同い年の頃は横浜から鎌倉の祖母の家に行くだけで泣きじゃくりながら行き着いた思い出があります…(笑)

後藤: (笑)。

両親が共働きだったため、作り置いてあるお弁当を持って行って、塾とバレエに通うなどといった生活を3年間くらい続けました。

ただ、もっとタフな日は、家に帰ってバレエ道具を担いで東京に行く、または帰ってきてからバレエに行って、それから塾に行くという時もありました(笑)。

三浦: まるで部活に勤しむ高校男児のような生活ですね(笑)

後藤: でも、その生活のおかげでガッツがついたのかなとも思っています。それが今の基礎になっているなと。

バレリーナを目指すことへの挫折。『自分』がなくなる危機感

三浦: 一生懸命頑張っていたバレエに転換期があったそうですね。

後藤: 小学校5年生くらいですごい子に出会ったんです。私より2,3歳上だったのですが、その子を見て、私が同じ年齢の時にこの子以上にはなれないなと思ってしまったんです

もちろん、自分ができる全力は出して練習していましたし、自信もあったのですが、なぜかその子だけには追いつけないのではないか、と思ったんです。

思えばものすごく冷静な10歳だった気がしますが(笑)。

2,3年後にあのレベルに到達できないのであれば、その子やその子以上の人たちに勝つことはできないし、バレエでご飯を食べていくこと自体がほぼ不可能に近いのではないかという現実の厳しさを突きつけられた感覚でした。

三浦: とっても冷静な10歳ですね。その時点で将来をそこまで考えていられるということに驚きを隠せません。

後藤: バレエを学ぶ世界自体、かなり厳しいものもありましたが、その環境や苦しさに負けたというよりは自分に負けた気がしていたんです

その時まで、「諦めずに夢を追いかける姿がすごいね」と言ってくれることが、頭も運動も特別秀でているわけではない私からしたら、唯一の褒め言葉でした。

だからこそ、夢として掲げていた「バレリーナになる」というのを諦めることは、その”私”ではいられなくなるかもしれない、ということが怖かったんです

でも、バレリーナになるのを諦め、学んだのは『諦めるのも学びの一部』ということです。

その時はもちろん苦しかったですが、『逃げることは逃げるだけでなくて他の選択肢を見るチャンスだ』というふうに思えたんです。

だから今は、昔の私に「よく気付いたね」と言ってあげられるくらいの学びがある良い決断をしたと思っています。

今は全く違う世界である建築に来れたことは大きなチャンスだなと思いますし、今の私も昔の決断がなければ存在していないと思っています。



Instagramより

人生計画書に描いたことは全て実現する力強さ

三浦: 11歳の頃から人生計画書を書き始めましたよね。そこに『UCバークレーへ入学する』と書いてありましたが、当時はどういう思いで決めたのですか?

後藤: バレエをやめた時に夢がなくなってしまい、失意のまま過ごしていたある日、母が本を見たいからといって書店に一緒に行った時がありました。私は特に欲しいものがなかったため、お店をうろうろしてたんです。

そこでふとなぜか立ち止まり、なんとなく手元にある本を取ってみて1ページめくると、光で作られた十字架の絵が一面に現れて、すごく綺麗だなと感動したんです。

その瞬間に「私建築家になる」と決めたんです。

この本を書いた人は誰なんだろうと思って見てみると、安藤忠雄さんという方でした。

後ろのページをめくって略歴を見てみると、確か、コロンビア大学、ハーバード大学などの世界的に知られている大学での客員教授を勤められていたんです。

その流れはすべて一瞬で、本を取って光の十字架に感動し、建築家になると決めて、著者の名前と略歴を見て、コロンビアもハーバードもその他の大学自体そもそも知らなかったのですが、なぜか数ある安藤さんの客員教授歴の中からバークレーの名前が目に留まり、バークレーに行くと決めたんです


安藤 忠雄(あんどう ただお、1941年(昭和16年)9月13日 – )は、日本の建築家 一級建築士(登録番号第79912号)。東京大学特別栄誉教授[1]。21世紀臨調特別顧問、東日本大震災復興構想会議議長代理、大阪府・大阪市特別顧問。(Wikpediaより引用)

三浦: その話は何度聞いても純粋に、すごいな、と思うんです。なぜなら、たとえ「なりたい」と思っても、その道を歩むためにもっと用意周到に準備したりしている間に何かを言い訳にするケースが多数だと思うからです。

後藤: 何も迷わずに、その場で建築家になると決めました。書店から帰った後、母に「建築家になる」と言うと、母は「今から1時間半あげるからその間に人生計画書を作ってお父さんとお母さんにプレゼンしてごらん?」と言ったんです。

三浦: 人生計画書がそもそも何かや、どう書いていいのかを迷いそうですが、どういう感情で描いたのですか?

後藤: 思えば、何も迷ったりためらったりしなかったです。とりあえずキリのいい15歳をスタート、ゴールを30歳までで考え、線を引っ張ってその時になりたい姿を描いていきました。

でも確か当時は建築関連を学ぶとは書いたのですが、大学自体は日本を考えていました。そこから、20歳の頃にUCバークレへ編入して、その後にハーバード大学院に行くと書いたのを覚えています。

一番最初のものがそれで、確か13歳の頃あたりにもう1回書き直しました。でも、大きな違いはなくてどちらかというと最初の計画書に詳細を書き足す形でした。

一番幸運だった計画の変化は、20歳でUCバークレーを計画していたけれど、高校1年生の15歳の時に父の都合でカリフォルニア州に両親と一緒に来られたことです。

これは間違いなく一番大きな出来事だったなと思っています。


当時の人生計画書。一面にびっしりと文字が書き込まれている。見えにくいかもしれないが、真ん中より少し下にしっかりと青字で『UCバークレー入学』『UCバークレー卒業』と書き込まれているのがわかる。

三浦: それから6年ほどアメリカに住んでいますよね。

後藤: こっちに住んで英語を勉強し始めると同時に、アメリカのことも勉強し始めたんです。

多くのことを学ぶ中でも、人種差別がアメリカでは特に顕著な社会問題であることに関心を持ちました。

勉強を続けている間に『日本人全体のまとまり』でなくて、『日本人の後藤香奈という個人を通じて日本を知ってもらいたいと思い始めたんです。

小学生の頃は恥ずかしがりや消極性が相まって、馴染むことに苦労しましたが、ゆっくりとでも確実に、今ではたくさんの方に認めてもらうことができて、その中でもものすごく嬉しいのは「香奈を通して日本に興味を持った」と言ってもらえることが増えたことです

また、最近「香奈は日本とかそういうまとまりではなく、『後藤香奈』だよね」と言われたことにまた一層強く嬉しさを感じました。

日本人の、アジアの、女性の、という括りやカテゴリーでなくて、『後藤香奈という人間から何かが始まり出してもいいんだ』と思えたからです。

人物が先に相手の印象になり、そこから日本、そこから日本人の女性というように逆から相手に日本を知ってもらう形でも始まることが出来るのだなと思えたんです。

それが私の本望ですし、実は名前の由来もそういう意味なんです。

私の名前は香りの『香』に奈良の『奈』と書くのですが、込めてある思いは「日本の香りをこの子を通して世界中に広めたい」というものなんです。

三浦: 生まれた時に授かった名前、バレエへの苦渋の決断、そして建築家になると決断し、引っ越してアメリカに住むことになって、今はそう言われるようになってと、すごい。全部が繋がっていくんですね。

後藤: 繋がりすぎて面白いと思う反面、少し不思議なくらいです(笑)

それこそ最近点と点が繋がって線になっていっているなというのは実感しています。

これからまだまだ点を作って行かないといけないですが今まで築き上げてきたものは繋がりつつあるかなと思っています

▼この記事をシェアする▼

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

ABOUTこの記事をかいた人

サンフランシスコ・シリコンバレーに留学していました。 現地では人生を懸けて戦うシリコンバレーの日本人の生き方を日本にいる人たちに伝えたいということからインタビューをしていたり、学生がシリコンバレーの情報を継続的に届けているメディアなどがないと思い、その時からブログを運営し始めました。 現在は経済学部4年生をやりながら、六本木でPMをやらせてもらっています。関心分野はシェアリングエコノミーとブロックチェーンで、女性権利問題に大きな課題や憤りを感じています。優しい社会を創りたい。