伊藤 真也 氏:会津大学卒業後、アメリカアーカンソー州の大学院にてコンピューターサイエンスを学ぶ。大学院ではセンサーネットワークの研究に携わる。その後ミシガン州のコンサルティング会社に約6年半従事。カリフォルニア州をベースにヘルスケアを手がける会社にジョインした経験の後、現在のTerrace Cousulting, Incにてシニアコンサルタントのポジションでフルスタックエンジニアとして働かれている。
目次
大学時代から実践的なコンピューター学に触れる
ーー理工学で知名度が高い会津大学に入学していますが当初からコンピューターに興味があったのですか
高校時代は栃木県の進学校に行っていたのですが、猪苗代で行われた勉強合宿の時に、先生が「気分転換に大学見学にでも行こう」ということで最寄りの大学である会津大学へいったことがきっかけです。
英語が何度やっても赤点で意気消沈気味だったことに加え、大学見学へ行ってみたかったので実際に行ってみるとにしたんです。大学は休日だったこともあり人がほとんどおらず閑散としていました。
その代わり、1台ものすごい高い値段のするコンピューターが何百台も並んでいて、無機質ではあるけれど、なぜかそこに憧れを感じる不思議な気持ちを覚えたんです。
また、ハッカーたちがいそうな雰囲気がありゾクゾクしましたね。
恐らくコンピューターを見てワクワク感を覚えたのは、元々ゲームが好きで開発してみたいという思いがあったからだと思います。
ゲームの開発にはプログラミング言語を学ぶ必要があるというのを聞いていたため、ソフトウェアの勉強をしたいとぼんやりと考えていたことに加え、遊ぶ側としても「仕組みって一体どうなってるんだろう?」という純粋な疑問と興味があったからです。
同時に、パーツを調達して自分で1からパソコンを作ることを趣味としていたこともあり、ハードウェアへの興味も強かったんです。
会津大学の理工学部では、コンピューターをソフトとハードの両面から勉強できるというのを聞き、入学を決断しました。
ーー入学当初から開発を行っていたりしたのですか
いざ入学するとバイトや学業などで忙しく、1-2年はあまり思ったようなことができませんでした。
3年生になる時にハードウェア学科かソフトウェア学科どちらに入るかというのを選択しなければならなかったのです。
ハードウェア学科ではCPUや電子回路設計などの基礎と応用、ソフトウェア学科はコンピュータープログラミングに始まりデータベースやネットの理論を体系だって一から学ぶことができました。
そこで僕はハードウェア学科を選んだため、結局ソフトウェア開発自体には授業ではほとんど触れませんでした。
ーー現在ソフトウェアエンジニアとして働かれていることを考えると、最初からソフトウェア学科を選択されたのかと思っていました。
プログラミングの授業が、当時の僕がイメージしていたものと異なると感じてしまったからです。
好きなものを作らせてもらえる授業ではなくもっと理論や数学寄りで、具体的に言うと『方程式を解くプログラムを作ってみよう』という形式が多かったため、プログラミング自体の行為が楽しいか楽しくないかを問われたら楽しくないなと思ってしまったんです。
今は楽しくソフトウェアエンジニアとしても仕事をしていますが、当時は数学にも作る対象にも興味を感じられなかったのでプログラミング自体に惹かれなくなってしまっていたんですよね。
そのような思いがあり、ハードウェアの学科を選んだというのが理由です。
大学時代の恩師に影響を受けてアメリカへ留学。
ーーアメリカ留学へのきっかけは何だったのですか
学部時代に、恩師に当たる人に出会ったことです。
その方がアメリカの大学に留学経験があり「これからの日本人は海外に出ないとだめだ」と言っていることを聞いて、触発されたんです。
触発され続けた挙句、留学を視野に入れ、やがて留学への志が本気になったは良いものの、大学院へ入学するにはTOEFLで規定の点数に満たなければ入学が許されないんです。
そのため、気持ちが固まってからは英語の勉強を本気でするようになりました。
高校時代から英語が大の苦手で、赤点は日常茶飯事。
それだったので、英語学習へ苦手意識がある上、それを勉強しなければ大学院へはいけないという葛藤の中、非常に苦労はしました。
しかしその苦難よりも留学へ行きたい思いの方が勝っていたため、必死に勉強をし、結果、アーカンソー州にある大学院へ留学をすることができたんです。
ーーなぜアーカンソー州へ?
もちろん様々な地域の大学や教育制度、学部の違いなども見たのですが、そこを選択した決め手は学費面で生徒に手厚いサポートをしていたからです。
そこの大学院では、奨学金で学費と生活をほとんど賄うことができるプログラムがありました。
そこで面白いと感じたのはアメリカの理系の大学院は、学生に対するサポートがものすごく厚いということです。
サポートを受ける形としては、例えば教授の助手として手伝い、給料をもらうという形だったり、補助ということで資金が出たりと、教授と生徒のお互いがwin-winを感じることができるようなプログラムがありました。
僕の大学は留学生は週に20時間までは学内で働く事と引き換えに授業料が全額免除となり、さらに生活のために給料をもらうことが出来ました。
奨学金を得るためには、まずは獲得した研究費をもとに学生を助手として雇いたい教授に対して学期が始まる前までにコンタクトし、雇ってくれるように応募しなくてはいけませんでした。
具体的に僕がしたのは、初めに色々な学部の学部長(Dean)と呼ばれる人にコンタクトを取り、学部自体やその学部の教授がどのような助手を必要としているという情報を得ました。
それから雇いたい当事者に対して直接研究室に出向く形で話に行きました。結果的には、教育学部ののコンピュータラボでコンピュータ機器の設定+ウェブシステムの作成に携わる仕事につけました。
アーカンソー州はアメリカ合衆国の東南の方に属している。第42代米国大統領ビルクリントンに所縁がある。
ーー大学院の専攻もハードウェアだったのですか
コンピューターサイエンスでした。日本のハードウェアに当たる学問はComputer Engineeringと言われます。
実は当時はあまり考えていなく、単純に選択肢に合った大学にComputer Engineering学部がありませんでした。
ーー恩師の方に影響を受けてアメリカに留学していますが、その前から海外には興味があったのですか?
それが全くなかったんですよ(笑) 。叔母はアメリカで結婚し生活していましたが行ったことはありませんでした。
大学時代にタイ旅行へ出かけましたが、それ以前にはこれといって海外経験はありませんでした。
それに英語も赤点が当たり前で、大の苦手科目でしたので、海外経験0で、英語が不得意な状態は思いと努力で脱しましたね。
ーー本当に恩師の方の影響が大きいんですね。
そうですね。当時を振り返ると、その方を信じて盲目的についていっていました。
大学生活はそれができる環境も時間もあったため、英語の勉強にも力を入れられたと思っています。そして何よりその方からのサポートがものすごく大きかったです。
そして英語の勉強をコツコツと重ね、結果的には基準点をぎりぎりわずかに上回る点数を取り、大学院への入学が決まりました。
でももし数点足りなかったら基準点に満たず、入学できていませんでした。そう思うと少し怖いですが、指一本ギリギリかかって本当によかったなと思っています。
高校時代に赤点だった英語と格闘。そして身につけた”英語力”
ーー大学院時代に初めて生の英語に触れれられたと思うのですがどのように英語は学習されていたのですか
力ずくでなんとかした感じです(笑)でも今思うと人生で一番密に勉強した時期は大学院1年目だったと思います。
英語を話してきたわけではないので会話も流暢にできるかと言われるとそうではないのですが、学生はもちろん授業を受けることが最優先です。
だからまず授業を聞き取れるようになるために頑張らなくちゃいけなかったですし、授業でも分厚い教材を毎日大量に読まなければならなかったので図書館にこもりきりで、1日15,16時間勉強し、余った時間にようやくご飯を食べるといいう生活を1年間続けました。
そのため、最初の1年間は友達はがあまりできませんでした。
授業でコミュニケーションするための人達はいましたが友達と言える人はほぼいない環境で、ずっと勉強をしていましたね。
ようやくある程度話せる、読めるなど自分の英語力を信頼し始めた時に、交流会などに参加し友達を作ったり、研究室に所属し論文を書いたりしました。初めの1年間は下積みの期間でしたね。
今思うと、自分が若かったからこそあのような生活ができたのかもしれません。
体力面ももちろんそうなのですが、覚える力や根性や気合というか(笑)
もし5年も10年も遅れていたらできていなかったなと思います。
——慣れない土地で友人が少ないと精神的に苦しかったりしませんでしたか
そこは問題ありませんでした。でも稀に鬱になって帰る人がいるというのもちらほら聞いていました。
ただ思う事は、海外留学で大学院まで来る人は足切りゾーンを既に乗り越えていていると思います。
まず精神力にも英語にも自信がない人は海外の大学院へ入学しようと思う人は多くないと思うのです。
なので来る人のほとんどは初めから肝が座っている人なのかなと思います。
卒業。そして就職。
ーー大学院を卒業されたあとはミシガンへ移っていますね
ミシガンにある日系のコンサルティング会社で、6年半くらい働いていました。
——ソフトウェアエンジニアとして働いていたと伺っています
当時は自分をソフトウェアエンジニアと思ったことがありませんでした(笑)。
小さな会社だったこともあり仕方がなかった側面もあるのですが、何でも屋さんでした。
問題解決をするために使うべきツールはある意味何でもありで、どうすれば問題を解決できるのかという発想から着手し、お客さんと話す段階でどういうシステムが欲しいのかというのを一緒に検討し、それに対する解決案の提案、見積もり作成と契約、実装、テスト、本番移行、サポートなどほとんど全てを行います。
その時に、ウェブのフロントエンド開発なのかバックエンド開発なのかによって様々な異なるツールを使いますし、エンジニアサイドだけでなくビジネスサイドからの提案もすることも少なくありませんでした。
自分の中ではエンジニア一筋だと思っていたのですが(笑、友人と話していて、どうも自分のやってることは少し違うぞとなんとなく気づきました。
そのような職業をソフトウェアコンンサルタントと呼ぶのですが、今の会社に就職するまでは呼び名すら知りませんでしたね(笑)
ーーその後はカリフォルニア州のヘルスケアを専門とした会社で働かれていましたね
アメリカにいる老人や子供達が保険を簡単に受けられるようにするサービスを行う会社の取りまとめを行っていました。
社内外のシステムをマネージメントしたり、新規事業を担当したりしました。
そこは福利厚生も良く、労働環境もすこぶる良く、8 am ~ 5 pm できっちり上がれてしまうのです。
そのため、そこで働いている期間は仕事の後にはミートアップに参加したり、興味のあることを勉強したり、趣味のアウトドアをして過ごしていました。
かなり勉強ができた期間であったと思います。
現在Terrace Counsulting, Incにてシニアコンサルタントとして働く
ーー会社自体、幅広い領域に手を出していると感じたのですが、ご自身は何をされているのかお聞きしてもよろしいでしょうか
プロジェクトによりますが、現在は大手ワイン会社のウェブシステムを担当しています。E-Commerceや物流システム、内部システムなど様々な独立したシステムの開発をしたり管理を行っています。
あとはCloud上でネットワークインフラを構築したり、その上でそれが通信する際に必要なセキュリティ部分の設定、アプリケーションのデプロイなどを行います。新規機能が必要な場合はその開発や外部との連携の作り込みも行いますね。
業界や業務が限られているというわけではなく、結構幅広いです。
だから毎回何かに着手する度に知らないことだらけで勉強する必要がありますし、しかもどんどん必要な知識やスキルが変わっていくので例えば資格を取ったところで、短期間でその知識が古くなってしまうなど、変化のスピードは早いです。
しかしその分飽きないですし、知的好奇心が刺激され面白くはあるんですけどね。
ーー創業から25年が経っていますが、スタートアップのように動きが早い印象を受けます
今の会社のすごい点は、社員数は15人程度しかいなく少ないのですが、一人一人のスキルが高いところです。
それぞれ違う分野で強みがあり、新しくプロジェクトが入ってくるとタスクフォースみたくチームが組まれるんです。
まずプロジェクトマネージャーとソフトウェアアーキテクトが割り当てられて、アーキテクトからの指示で次にエンジニアの割当が行われます。それからシステムをどう設計するのかという全体のプロジェクトの計画に入り、お客さんと話しながら要件定義と個別のタスクを割り振っていくやり方です。
そのプロジェクトが終わるとまたチームが変えられ、また別のプロジェクト用のチームを作る、まさにタスクフォースのようなスタイルでプロジェクトを回しています。
また、顧客はサイズの大きいところが多いです。
「一つのバスケットに卵を入れずに、分散をするべきだ。バスケットが落ちた時に全て割れてしまわないように」という社長の考えで、もし一つの顧客がいなくなっても、複数の他の企業にてそれを充当できるということと、ソフトウェアは少人数精鋭で作ったほうが質の高いものが出来上がるという考えのもと、あえて大きなチームでの開発を避けていて、資金が潤沢にある大企業を顧客に選んでいるというのがやり方としてうまいなと思いました。
Terrace Cousulting, inc:ウェブ開発からビジネスコンサルティング、クラウドベースソリューションの提案など幅広い事業を展開している。
ーーこの会社を選んだ理由は何だったのですか
人材紹介会社の紹介がきっかけです。ある日急にコンタクトが来たんです。
その時はグリーンカード取得待ちの状態だったこともあり全く行く気はなかったのですが、インタビューを受けたら気に入ってしまったんです(笑)
ーーそうだったのですね。どういうところが気に入ったのですか
社員と話して刺激になったのももちろんそうだったのですが、特に社長と話しているうちに、社長を気に入ってしまったということが大きいです。
——過去にコンサルティング業務に携わっていたことも採用された理由として大きいのでしょうか
すごく大きかったみたいです。
あとは彼らが僕の経歴を見てあまりジョブホッパー(短期間に仕事を頻繁に変える人)じゃないなと判断したらしいです。
実際には米国で働くこととビザの問題とは切っても切り離せない事もあり、そんなに頻繁に仕事を変えられるほど一筋縄では行かなかったこともありますが。
また、日本で言う適正検査のようなものを受けさせられ、会社が求めるの気質を持っているカテゴリーに僕がたまたま当てはまったらしく、それで気に入ってくれたようです。
もちろん会社で半日かけての技術面接もありました。
感覚としては面接に通った手応えは感じなかったのですが、幸運なことに受かって良かったですね(笑)
最初は本当に入社することは考えていなかったです。ひょんなきっかけで入りました。
そもそもサンフランシスコを選んだ理由とは
ーーミシガンからサンフランシスコへ移動していますね
カリフォルニア州オークランドにおばさんが住んでいて、大学院を卒業後は毎年クリスマスにパーティーに呼ばれて行っていたんです。
何年か繰り返しているうちに、「カリフォルニアはなんていいところなんだ!」と思い始めたんです(笑)
気候的にも寒くないですし、シリコンバレーもありましたから、ソフトウェアエンジニアとして憧れがあったというのもあります。
サンフランシスコとミシガンの年間気温の比較表。サンフランシスコは常に最高気温が10度以上を保っているのに対して同じ季節のミシガンの最高気温はマイナスギリギリ。最低気温は既にマイナスに達している。寒さの幅が大きく異なる。
これから描く未来とは
今は結婚もし、グリーンカードも取得できてプライベートは落ち着いてきていると思っています。
けれども、仕事は相変わらず忙しくて(笑)ただ、アメリカでまだ頑張れるだけ頑張ってみようかなと思っています。
まだまだ学びきれていないことも多いですしね。
キャリアの面ではソフトウェアアーキテクトを目指したいと思っています。
面白いのが、ソフトウェア業界は、用語や概念に関して建築業界と似ているものが多いんです。
アーキテクトという言葉も建築から来ています。
ソフトウェアエンジニアが作るものは、決して物理的なものを相手にしているわけではないけれど、人が抱えている問題を解決するために設計して、付加価値を与えるものです。
建築も、人が住む場所として『家』なり『作品』なりを図面を書いてから設計をします。
どちらも、人が求めることをソフトや材料を使って具現化するものであるので、実は根底を考えると『設計』という部分ではソフトウェアと建築は似通うものが多いんです。
プロジェクト管理もしかり、テスト手法もしかりです。しかし建築は物理的な制約を伴うため少し制限がありますが、ソフトウェアは数学的な範囲内では出来ることは自由です。
ソフトウェアアーキテクトは何でも設計して作成ができる、最高峰の人であると僕は思っています。
技術に関する何でも屋さんの極みですね(笑)
でも世界には本当にいろんな人がいて、1つの分野を掘り下げる科学者や研究者みたいな人もいます。特にシリコンバレーではそういう人は多いと思います。
それもすごく憧れはあるのですが、自分が今まで歩いてきた道を振り返り、この先どこを目指していこうかと言う時に、広く深く学び続けることもいいなと思い、アーキテクトを目指したいなと思っているんです。
最後に、挑戦したい人に対してメッセージをお願いします
僕がメッセージとして送りたいのは、色々調べたり考えたりするのももちろん大事ですが、「とりあえず国外に出てみてください」ということです。
僕はお金持ちの家庭に恵まれたわけでもなく、特別頭の良かったわけでも才能があったわけでも決してありませんでした。
今考えると恥ずかしい失敗も数々重ねています。ですが、結果的にこちらの世界で生き残ってきて過去を振り返ってみると、留学を通して国外に出るという行動をしていてすごくよかったなと思います。
スティーブジョブズの言葉に「Connecting the dots」というものがあります。過去にはそれぞれの点が事象として見えるけれども、未来から見るとその点と点はいずれ線にできるという。
それは非常に的を得ていると思っています。
今やっていることは未来から見ないと意味付けはできないかもしれないけれど、とりあえず行動を起こしてアメリカなり、日本の国外に出て、苦労をしてみることが自分自身を大きくすると思っています。
必ずしも海外や留学を通してではなくてもいいです。何か今までと大きく違う、全く知らない環境へ飛び出してみて、苦労して、たくさん揉まれて、勉強するなり仕事をしてみるのもいいんじゃないかなと思っています。
何より、考えるよりまずは行動かなとは思います。
もし若い人であれば今唯一最大の資源は「若いこと」だと思います。体力もそうですし、「若いからこそできる」「若いからこそ無鉄砲に飛び込める」ということがたくさんあると思うのです。
自分の大学出たての頃を考えると、そもそもどう考えたらいいかということも意識はしていませんでしたし今の自分がその頃の自分と話せるとしたら何も考えていないように感じると思います。
ですが考えすぎても行動出来なくなっていたとも思うので、良い意味で、考えずに何か行動を起こしてみることが結果的には必要なんじゃないかなと思っています。