波江 優 氏: 幼少期から漠然と英語や海外に興味を持つ。大学進学の際に海外大学への入学を考えるが「日本の大学と海外の大学を両方知りたい」と思い、日本の大学を卒業。その後は念願の海外であるアメリカ・サンフランシスコにある大学院へ進み、国際社会学を専攻する。現在はBtraxにてイノベーションファシリテーターを務め、デザイン思考やヒューマンセンタードデザインを先導する。
目次
幼少期から高校時代まで
ーー海外に興味を持った経緯を教えてください
これといったきっかけは分からないのですが、幼い頃から海外に興味を持っていました。学校で英語の先生が来る度に毎回わくわくしていましたね(笑)
ーーどのような幼少期を送られていたのですか
(18歳で親元を離れ、1人で海外旅行に出かけたり、単身渡米をしている今となっては考えられませんが)、小学校に上がるまでは母がいないとないと祖母の家にも泊まりに行けないような子どもでした。
また、小学生の時は風紀委員のように真面目な子供でした。
例えば、給食を準備している時間にクラスメイトたちが机を叩きながら遊ぶ流行のゲームをして遊んでいたことがあったのですが、帰りの会で「みんながやっている遊びがうるさすぎるのでもう少し静かにしてください」と発言したことがあります(笑)
みんなが楽しんでいるときにそんなことを言うなんて今思えば鬱陶しいですが、効果はあったのか、翌日からみんな小声で遊ぶようになりました。
それを見て少し申し訳ない気持ちになりました…(笑)
ーー小学生・中学生で何か変化はありましたか
実は小学校のときに2度転校しているので、環境の変化は少しありました。
小学6年生のとき、転校生はただでさえ珍しい環境だったにも関わらず、イベント行事では目立つ役どころをどんどん取ってしまうなど、良い意味でも悪い意味でもよく目立っていました(笑)
それらの役割をやらせてもらえたのは、みんなが恥ずかしがって挑戦しない中、私は「やりたいからやる!!」というスタンスを持っていたからだと思います。
日本では大人になると積極性を評価されますが、子供の時は嫌がられる傾向があると感じます。
自分のやりたいことに対して周りの抑圧があると挑戦できなくなる人もいますが、私は目立つことに抵抗がなかったので自分のやりたいことを素直に言うようにしていました。
今回取材させていただいた場所はSouth Park。周りにショップが立ち並び、天気が良い日のピクニックに最適だ。
大学時代 ~日本の第一志望か、海外の大学か~
ーー大学選びの基準はありましたか。やはり「海外」がキーワードだったのでしょうか
そうですね。マルチリンガルになるのが当時の夢だったので、より多くの言語や文化を本格的に学べる大学を目指していました。
実は中学生の時から文集にアメリカとフランスとスペインとロシアの国旗を書いて「マルチリンガルになる」と書いていたほどで、「マルチリンガルになるために何言語も履修できる大学に行こう!」と意気込んでいたくらいでした。
ーーマルチリンガルになる夢を掲げるにあたり、専攻したい言語はあったのですか?
私は外国語を勉強するにあたって英語を選択肢には入れていませんでした。
英語はできて当たり前の時代になるだろうと思ったので、当時はマイナーな言語を話せることで自己の価値を上げたいと考えていたと記憶しています。
また、英語を話さない方たちとも幅広くコミュニケーションを取れるようになりたいと強く思っていたからです。
パンフレットを見ながらどの言語にしようかなと悩みに悩んだ結果、スペイン語を選びました。
世界で3番目に話者が多い言語であり、英語を話さない層もまだまだ多く、学ぶ価値が高いと知ったからです。
スペイン語以外にも数多くの言語を習得できる機会に恵まれている第一志望の大学に入るため、成績の判定が程遠いことも気にせず、その環境に入るための勉強を必死に続けました。
しかし残念なことに、合格することはできなかったんです。
ーーその後はもう1年伸ばし、またリベンジされたのですか
結果から言うと、リベンジすることはありませんでした。
浪人をほぼ心に決めつつも、いくつか他の大学も受験しており、それらからの合格通知を得ることで次年度への自信をつけられればと期待していました。
しかし、はじめにもらった合格通知を除いて、いくら待っても受験大学から連絡がこない。
結局、合格していたのは初めに通知をもらった1校のみでした。
その大学は、語学教育に相当力を入れていて、ドイツ語に関しては日本で1番教授陣も充実していましたし、文句のつけどころがない環境でした。
ただ当時は、ドイツ語よりもスペイン語や他のマイナー言語を履修することへの興味の方が強くかったんです。
本気でスペイン語を学びたいなら浪人するしか選択肢はありませんでした。
しかし、1年後の結果がどうなるかわからないことが不安になってしまい、目標としていた大学への進学は挫折に終えたんです。
ーーそれで日本の大学に進学されたのですね
日本の大学がどんなものかを知りたい気持ちもありました。
周りは「日本の大学生は勉強しない」と言いますが、現実はどうなのかを自分の目で見てみたいと思ったからです。
また、憧れの大学への進学を諦める代わりに、日本ではなく海外の大学へ進んで、国際的に通用する人材になるという手段を考えました。
そこで考えたのが、海外大学への編入でした。
少し日本の大学に通って、その後海外の大学に編入すれば一度で二度美味しい。そう思ったんです。
ーーでは高校卒業前から大学編入を視野に入れていたのですね
そうですね。でも結局、海外の大学へ編入しませんでした。
アメリカの大学への編入を考えて大学の履修を選んでいたのですが、2年生の時に転機がありました。
内閣府による青年海外派遣事業の話を耳にしたことです。
そのプログラムは、政府から派遣される日本青年代表として外国を訪問し、現地住民から大臣級の役人、JICAや国際機関で国際開発に携わる日本人を公式に訪問するような貴重な経験が提供されるものでした。
それを聞いた瞬間、「これは応募をしない手はない!」と思ったんです。
しかし当時はすでに2年生で、次のチャンスは3年生の時でした。
そのため、自分の中で海外派遣事業に行くことが最優先になったので、結果として大学編入のタイミングを逃しましたね。
そのため、自分の中で海外派遣事業に行くことが最優先になったので、大学編入はしなかったんです。
バルト三国や中南米及びアジア諸国などに日本青年を派遣し、訪問国では現地青年との社会事情に関するディスカッション、企業等施設訪問及びホームステイを行う。波江さんは「国際青年交流育成事業」でドミニカ共和国へ行かれたそう。
ーーその時に自分がやりたいと思ったことを優先したのですね
はい。良い選択だったと思っています。
日本に残ったことで国際系のNGOなど興味のある分野で1年ほどの長期インターンに2つ参加することもできましたし、日本の大学生活を一通り味わうことができたので、結果的にアメリカに来てから「日本の学生はこういう感じだよ」という話が経験を通してできるようになりました。
インターンといえど、日本の社会人生活を垣間見れたのもその後海外へ移る身としてはとても貴重な経験になりました。
また、もし2年間で日本の大学生活が終わっていたら、自分の大学の人しか知らずにいたかもしれませんが、海外青年派遣に参加して交友関係が他の大学や国に広がりました。
その経験は渡米する時の支えになりましたし、今も当時の友人たちが仲良くしてくれています。
そういった意味では、編入こそしませんでしたが、最善だったのかもしれません。
念願の海外 ~サンフランシスコの大学院へ~
ーーその後、日本で就職をせずにアメリカの大学院に進んだのですね。なぜアメリカだったのでしょうか
実はオーストラリアとアメリカの大学院から合格通知を頂いていたんです。
ただ、私はどちらに行くかとても迷いました。
アメリカの大学院では国際問題を包括的に学ぶことができ、まだ専門にしたい分野が定まっていなかった私にとって良いプログラムのように感じました。
一方オーストラリアの大学院は、公共政策に専門を絞ったプログラムを提供しており、またアメリカで合格をいただいた学校より数倍知名度がありました。
大学院で専門性を高めることには、とても魅力を感じた一方で、自分が本当にやりたいことが定まっていない段階で、専門を決めてしまうことに不安も感じていました。
また大学受験で挫折していた私にとって、周りからの評価を得られるだろう知名度のある大学に行くことはとても魅力的に映っていました。
迷いに迷った結果、住む環境(国)とカリキュラムで最終的にはアメリカの大学院へ行くことにしたんです。
本当に迷ったのですが、最終的に視野を広げたいという気持ちが勝りました。
将来的には海外で働きたかったので、その機会にアメリカの方が恵まれていると期待したというのもあります。
アメリカのほうが日米貿易が盛んですし、国際機関の拠点も数多くあり、当時興味を持っていた国際機関でのキャリアも追いやすいと考えました。
大学の知名度に関わらず、自分で道を切り開く力を養うことは後々活きてくると判断しました。
サンフランシスコでやりがいのある仕事に出会う
ーー現在Btraxでイノベーションファシリテーターをされていますが、日本企業のスタートアップやローカライズをサポートする中でご自身がやりがいを感じるのはどういった点ですか
もともと新しいものを作ることが好きでした。例えば、小学校の時から好きな教科は図工でした。
(どちらかというと写生画を描くよりもより自由に工夫できる物作りが好きで)、みんなと違うユニークなものを作ろうとしていました。
現在は今までにないものを作るお手伝いが仕事ということになるので、とても楽しくやりがいを感じます。さらに、自分が関わった案件が世の中に出るととても嬉しいです。
それから、「人」に興味があります。
Btraxではデザイン思考やヒューマンセンタードデザイン(人間中心設計)を大事にしていて、技術を製品化・サービス化することを一番に考えるのでなく、ユーザーのニーズや課題解決に重きを置いています。
「人がどう感じたり考えたりするか」にフォーカスしながらクライアントと一緒にインタビューやリサーチを行い、今後のビジネスやサービスの方向性の決定をガイドする役割を担っています。
その中で様々な人の話を聞いたり人の喜ぶことを考えるのは純粋に興味深く、常にわくわくしながら働けています。
以前インタビューされていた職場の先輩である季沙さんが最後に「上司に恵まれた。まさに恩師。」と仰っていましたが、本当にその通りで、私の所属するチームの先輩・上司は1つの事柄に対し、様々な視点から物事を捉え、その可能性を考え、人とコミュニケーションを取っていくような人たちで、いつも学ぶことばかりです。
そんな彼らとアウトオブボックスなものを作っていくような活動ができることが楽しいです。
ーーわくわくする感覚を大事にされていますが、それが自分にとって最優先の価値観だと確信した出来事はありますか
決定的なものがあるわけではないですが、「わくわく」に従って行動すると、何かしらいいことがあるように感じていますね。思ってもいなかった学びや機会にめぐり合うことが多いです。
失敗を恐れて行動しない人もたくさんいますが、やってみたらなんとかなるものだと思っています。
例えば私はアメリカで働きたいとは思ってはいましたが、実際には言葉の壁もあるし、優秀で経済力の高い人がたくさんいる中で勝ち抜かなければならないという不安もありました。
実際数年前の私は、大学院留学すら自分には難しすぎるだろうと考えていましたし、労働ビザをもらってアメリカに残るなんて企業にとって相当な即戦力にならなきゃ無理だろうと思っていました。
でもできることなら叶えたかった。だからとりあえずやるだけやってみたんです。
結果として、大学院留学はなんとか実現し、運よく会社もビザ申請のサポートをしてくれることになりました。
まずはやってみたらそれから見えてくるものは多いですし、「やってみたい!」を叶える方法は1つではありません。
駄目だった場合にはプラン B、プラン Cもトライしてみればいいと思います。
それでも駄目なら、神様が「違うよ」「もっといい機会があるよ」と言っているのだと思います。
例えば今回アメリカの労働ビザが移民局から発行されなかったとしたら、今アメリカに長期滞在して働くのでなく日本や他の国で働くことに縁があるということかもしれません。
つまり、挑戦して駄目だったから自分が駄目な人間ということではなくて、もっと良い機会があるから今回は縁がなかったというだけとも考えることができます。
なので、とりあえず楽しそうだなと思ったら挑戦してみて、駄目なら駄目でいいのです。
いつ死んでしまうのかわからない人生なのだから、わくわくに従って行動した方が私は幸せだなと思います。
将来のイメージは?
ーーお話を聞いていく中で、リーダーとサポーターの両方の色をお持ちだと感じました。将来的にはどのような立場で何をしたいというのはお有りなのですか
私は自由が好きですが、だからといって1人でいるのは好きではありません。
なので、他の人たちと協力しながら、いつかはフリーランスとして自分が情熱を向けられるプロジェクトを行えたら理想的ですね。
ファシリテーターとしての経験を活かし、ビジネスパーソンや非営利分野で活躍する人、テクノロジストなど、様々なバックグラウンドを持つ人々を巻き込んだ議論の交通整理をするという形で、ソーシャルグッドに関わるプロジェクトを推進していくのも素敵だなと思っています。
また、今はデザインや物作りも仕事を通して学んでおり、とても楽しんでいるので、実践的なスキルを身につけてデザイナーとしてそういったプロジェクトのサポートをすることも視野に入れています。
まだ「これを人生懸けてやりたい!」と強く思えるものがまだぼんやりしているので、興味のあることにどんどん挑戦しています。
実際やってみたら「想像と違った」というのはよくあることです。それを理解するにはまずはやってみることを大事にしています。
ーー「まずは挑戦」「失敗しても次がある」という心意気は、これから何かに挑戦する人や自分自身にとって大切なものだと感じています
ただ、私も失敗したら落ち込みます(笑) でもそこから、どう解釈して次につなげるかというのが大事なのではないかなと思うんです。
最後に学生に対してメッセージをお願いします。
私はアメリカの大学院を出て現地で働いていますが、自分はもっていわゆる『何かができる人』というわけではありません。
過去を振り返ってみると、「やりたいけど、私にはできなさそうだな…。」と怯んでしまうことも少なくはなかったです。
きっとそれは必死に努力しても目標には届かなくて、挫折した大学受験の経験から「もっと現実を見よう」と思ったからかもしれません。
でも、やりたいからとにかく体を動かして挑戦を続けたら実現させることが出来たんです。
だから、誰にでもチャンスはあるんじゃないかと思うんです。
ただ、もし「一歩が踏み出せない」という状態なのであれば、今は他にやるべきことがあるのではないでしょうか。
外国に行きたいと言いつつも勉強が進まなかったり、調べなければならないのに手がついていなかったりする時は、きっと「今じゃない」のです。
「今本当にやるべきことなら勝手に体が動いてやっている」と私は考えます。
例えば私は、以前プログラミングの勉強をしたいと言っていた時期があり、Python(パイソン)を学ぶイベントにも参加していましたが全く夢中になれませんでした。
プログラミングは勉強すれば書けるようになったかもしれませんが、他に力を注ぐべきものがあるんだろうなと思いました。
反対に、アメリカの大学院を受験するときは必要なテストスコアがリギリまで足りず、不安で不安で仕方なかったのですが、努力を重ねてなんとか入学にまで至りました。
本当に留学したかったのだと思います。
また、シリコンバレーのイメージは起業文化が盛んで優秀な人が多いイメージがあるかもしれませんが、必ずしもテック系の人材でないからといった理由で自分にはできないと線引きをする必要はないと思っています。
私は東京など情報が多い都市の出身というわけでもなければ、いわゆる「一流」と言われる大学の出身でもありません。
むしろ、私なんかはたまたまサンフランシスコに来て、やりがいがあるなと思う仕事に巡り会えただけの人です。
私のようにたくさん失敗して、諦めそうになって、それでも食らい付いてきたら、ここに居れた、そんないわゆる「平凡な人」もいます。
だから、「自分が目指したいものに対して頑張っていると、今までは見えなかったチャンスに恵まれることもあると思う」と伝えたいです。