福島 八枝子 氏: 大阪府出身。バスケ選手を目指していた矢先、中学3年生の頃に半月板を怪我する。いつか誰かの怪我の撲滅やメカニズムの発見を待つのでなく自分で医師になろうと思い医学部へ入学。整形外科医としておよそ9年間勤めるがある日疑問を感じ外科医をいったん離れ、大学院でスポーツ医学の道へ進む。現在はスタンフォード大学PM&R科でエコーを使った新しい医療の可能性を探っている。
医師になると決めたきっかけ
ーー医師になると決められる前はバスケをやられていましたよね
本格的な大学受験への勉強期間に入るまでバスケを本気で続けていました。当時は勉強もスポーツも苦手なわけではなく、夢中になったことにはなんでも全力で取り組んでいました。
自分も一生懸命取り組む中、もちろんチームメイトも同じ意識で毎日練習に励んでいました。
大会前に、友人が突然靭帯を切ってしまったことがありました。大会に向けて練習していたにも関わらず、怪我で出られなくなってしまったんです。
当時は気合いや根性が足りないと言われ、精神的に自分たちが負けているのかなと思っていました。
しかし、なぜ靭帯が切れるのかということを調べるとよく私もやってしまっていたのですが、『ニーイン』という動きが一番の原因で切れてしまうことが分かりました。
原因がわかった時にはそのような危険も知らずに体にムチだけ打つような練習をしていた自分の体も心配しました。
いわゆる、普通の中学生・高校生の部活動の現実かもしれませんが、最も理解に苦しんだのは、失礼な言い方になるかもしれませんが、先生や教員、大人という肩書きをもった「最低限の医学知識も予防医学の知識さえも、色んな面で知識のない人」がその肩書きだけで子供達に指導しているこの事実に愕然としました。
ニーイン(Knee in): ニーイン・トゥアウト(偏平足を引き起こす)最も多くみられる歪み。足底筋などの足裏の筋肉、スネ、ヒザに大きな負担をかける。脚が内側に倒れこみやすい。
気合いや根性などでなく、科学的なしっかりとしたメカニズムや原因があって切れているものだったんです。
しかし、そのサイエンスが解明されたのはそのあとからでした。
当時は、こういった新しい何かを解明するのは他の誰かがやってくれると思っていたんです。
私も子供ながら、どうしたらより走れるかや、どのように体力を試合中に保つかなどを考えていて、その仕組みはいずれ誰かが教えてくれるものだろうと思っていました。
しかし、待ったところで、自分が知りたいことは誰も知らない事であると分かり、情報をただ待っているだけでは相当時間がかかるとも分かりました。だから、『じゃあ自分が医者になろう』と決めたんです。
ーーバスケの経験を通す中で決めていかれたのですね
そうですね。あとは自分の怪我も1つの原因かもしれません。
バスケに夢中になっていた中学生の頃に半月板が2ミリほど欠けてしまったんです。
五体満足でそれまで生きてきて、中学3年生の時にそれが起き、痛すぎて大好きだったバスケはおろか、単に走ることさえもできなくなってしまったんです。
バスケ選手としてこれからやっていこうと考えていたため、その時はかなり失望しました。いわゆる挫折です。
少しでも早く治したいと思い、色々な病院に行きはしたのですが、誰にも完全には治せなかったんです。
そこで大人の方たちに言われたのが「プロになるわけではないんだからちょうどこの機会にやめたらいいじゃないか」という心なきお言葉で…(苦笑)
そこからはぼんやりとした思いでなく、本気で医師になってやるという思いに変わりました。困っている人たちを自分が寄り添って助けてあげたいなと思ったんです。
ーー反骨心のようなものがご自身を押し上げて行ったのですね
そうですね。ハングリー精神というか(笑)
幸いなことに、1年ほど経ち、時間と共に半月板の痛みは取れてきたのですが、気が付けばバスケからは少し離れたまま高校2年生になっていました。その代わり、勉強だけはその時期から続けていました。
私の高校は進学校ではなかったため、医学部を目指すというと不思議がられるような学校でした。
結果、医学部に進学できたのですが、その高校自体が現役で医学部に行く生徒を輩出するのは10年ぶりとなるようなところで、医学部とは縁がないような学校だったんです。
ーー僕も大学へエスカレーターで行ける高校に通っていましたが、いわゆる外部受験をしようとなると環境的なやりにくさみたいなのは感じていました
医学部を目指すといった点ではそうだったかもしれません。
ただ、周りの人たちに恵まれたなと思っています。今でもすごく仲がいいのですが、私たちの中では『面白い人』が人気者で、面白くなることこそが文化というか(笑)
「あの子は面白すぎてかなわへんわぁ」ということが日常茶飯事で、そういった人たちに6年間揉まれていたため(中高一貫校に通っていた)、いかに面白く生きられるかみたいなところもこだわりがあります。
そのため、私は相手が誰でも笑わせられる人をすごく尊敬しています。なぜかというと誰も傷つけずに、一人一人の人間にあったオーダーメイドの笑いを提供できるからです。
明石家さんまさんはまさにすごいなと思う対象で、どの刺客が来てもすべてをネタにして笑いに変えられる能力があって、本当にすごいなと思うんです。
たとえ同じ道、つまり医学部に進む仲間がいなくとも、周りにいて辛い事を笑いに変える『仲間』と呼べる人たちが周りにいてくれたから頑張れたと思っています。
友人たちが私を育ててくれました。感謝してもしきれません。
医学部へ進学
ーー医学部は難易度がかなり高いと言われますが、やはり猛勉強の日々だったのでしょうか
高校3年生まではそうだったのですが、いざ残りの高校生活を考えると、いずれは今の仲間たちと離れ離れになってしまうと気付いたんです。だから、残りの時間は勉強にでなく、仲間と過ごしたいと思ったんです。
わがままだったことは承知の上で親に伝えると、「仕方ないけどそういうならいいよ。どうせ国立には行けないだろうし。」と少しグサっとはきますが(笑)言ってくれたんです。
もちろん、私立は公立や国立に比べてお金がかかるため、そこが一番の問題でしたが了承してくれたことに本当に感謝しています。もし嫌な顔されていたり反対された場合はその選択をするのは無理だったと思います。
また、多くの人が難しい大学へ行けば行くほどいいと考えられていたようなのですが、私は全く気にしていませんでした。
なぜなら、大学の偏差値や名前でなく、『医学部』で『私自身が医者になる』というゴールを果たせる場所として最高の環境はどこかという視点で選んだからです。
ーー医師になられた後の専攻の診療科は整形外科を選ばれたんですね
そうですね。高い関心を持っていて行きたかったところに入れたので嬉しかったです。
ーーちょうどほぼ全ての診療科での臨床経験を積む初期臨床研修の初年度であったため、いい意味で選択肢が増えるため再び迷われる方も多いかと思うのですがいかがでしたか
質問の通り、ほぼ全ての診療科で学べるだけ学びまくりました。
整形外科医として務めるにも、国の決まりで初めの2年間は全ての診療科を学生でなく医者として就労しなければならないと義務づけられています。例えば、循環器内科や腹部外科など、1つおよそ3か月ずつくらいかけて担当します。
全て面白くは感じたのですが、中3の頃に決めた整形外科という決断というのはぶれなかったです。
むしろ、全ての選択肢を見た上で整形外科を選んでいるので、昔決めたことは当時までも続く強い気持ちだったのだと思います。
初期研修中にオペ(手術)をするのですが、実践することにより、さらに具体的なイメージが湧きます。
そこでイメージと違ったと思う子もいれば、もっとモチベーションが湧く子もいて、私は後者で、この道で正しいなと一層強く思えるようになりました。そしてより一層、自分の純粋な気持ちやそれに従う決断力を信じる事にしました。
ーー整形外科を選ばれたのはバスケの経験が大きいと思うのですがその他に理由とかはあったのですか
運動器がものすごく好きなんですよ(笑)。骨、関節、肉、靭帯、筋、末梢神経など、運動するもの全てです。
手術をしている時は、まるで自分が芸術家になったつもりでいつも臨んでいました。
「本来はあんなに綺麗な骨が今や折れてしまっている。美しい元の姿に戻さなければ」というような気持ちです(笑)
ーー2年間を終え、整形外科医としても勤められますがあえて高度救命救急センターに行かれていますね
あえて高度救命救急センターに勤めることにしたんです。
高度救命救急センター(こうどきゅうめいきゅうきゅうセンター)とは、救命救急センターのうち特に高度な診療機能を提供するものとして厚生労働大臣が定めるものであり、広範囲熱傷や四肢切断、急性中毒等の特殊疾病患者に対する救急医療が提供される。その特殊性ゆえ、心肺停止患者の搬送が多数を占め、患者死亡率も一般の救命救急センターよりも高い傾向にある。
Wikipediaより引用
例えば、交通事故で骨が折れた患者さんが救急車で運ばれてきたとします。
私の専門分野からすると、骨が折れていることにのみ集中してしまいがちです。
しかし、実際は骨を折ったと同時に頭を打っており、そちらの方が重症にであるかもしれません。
もしそれを知らずまま骨に関する手術のみ行った場合、一番守るべきであるはずの命を落としてしまいかねないと思い、その視点や知識を身につけようと思ったからです。
気持ちとしては、整形外科医としてなるべく早く仕事をしたかったのはありますが、今振り返ると運動器だけでなく生命といった、人間の仕組みを全体的な視点から見られるようになったため、あえて1年間遠回りしてよかったなと思います。
そして4年目から待ちに待った整形外科医の仕事が始まりました。
医学部卒業後 ~中学生の時に抱いていた”医師”という仕事へ~
ーーその時の気持ちはワクワクしていたものに違いないと思います。手術に楽しさややりがいを感じていそうですね
運動器に様々な状態が起こることに疑問が尽きなくて楽しかったです。
例えば、同じ怪我なのに骨が折れる人と骨が折れた上に脱臼した人がいたりします。はたまた、無傷の人、または筋肉の怪我だけで済む人もいます。しかし、その違いが不明なんです。
すると、予防をするとなっても原因が不明ですと対策も取れません。
なぜなら、これから骨を折れずにする対策としては骨を丈夫にするべきなのか、骨の周りにある肉を鍛えるべきなのか、筋を鍛えたらいいのか、はたまた運動神経を司る脳を鍛えるべきなのかなど、論点が不明瞭であるからです。
整形外科医は壊れたものを治す人であり、それはつまり元の健康な状態に「お戻しさせて頂く」という必殺仕事人みたいな役割で、そこに誇りを持っていました。
外科医のあり方に疑問を感じ大学院で1から学び直す
ーーご自身の思いに大きな変化があったそうですね
日本一の手の外科医の先生の所で働いていた時、ある出来事で外科医のあり方に疑問を覚え始めてしまったんです。
そこで学ばせていただきながら手術をし、自分の技術も上がっていったのか、ほとんどの患者さんの状態を元通りにすることができてきていました。
ただ、患者さんが稀に手術後もまだ痛いと伝えてくる時があったのです。
それから少しずつこれまで抱いていた思いが疑問に侵されてきて、その思いは止まることなく自分に疑念を投げかけてきました。
なぜかと言うと、日本一の整形外科医と私とで症例に合った最良の手術治療を選択して、これまでの知識と経験を全て活かし、100%完璧な手術を行ったにも関わらず、痛みが取りきれない症例がやはり存在したからです。
気づけば8年目、9年目に外科医としてなっており、やりたいことはある程度できるようになってはきました。
しかしながら、その疑問だけは解消されないままでした。
その時にスランプになったんです。自分たちが救うべき患者さんに手術後も痛いと言われるということは、私はそもそも誰のために手術をしているのかと思い始めたからです。
その思いをごまかすということもできず、自分に嘘をつくことはできませんでした。
これまでは、「外科医最高!手術で患者さんの困っていることを治せて、その嬉しそうな顔を見るのも幸せ」と思っていたのですが、その疑念が生じ始めてからは「もしかしたらそうでもないのかもしれない」と。
今まで築いてきた道に対してさえ疑問も感じるようになってしまいました。
それから、もう一度学び直したいと思い大学院に入学することを決断しました。
また、一度手術室から離れることにより、新しく見えるものもあるのではないかなと思ったことも、学びとは別の前向きな理由として持っていました。
大学院で進んだ関西医科大学。
画像はHP(https://www.kmu.ac.jp/)より出典
ーーご自身の中の疑問を払拭するために大学院を選ばれましたが、その思いをかき消す具体的な方法などを持っていたのですか
過去を思い返したんです。すると、「そういえば私、中学生の時に『外科医』になりたいと言っていたっけ?」ということを思い出したんです。
私は当時『外科医』ではなく『スポーツ医学のお医者さん』になりたいと思っていたなという原点に立ち返ることができました。自分の根底にあった気持ちは、何でも良いので治って欲しい!という思いでした。そしてまた、身体を動かして楽しく生きて欲しいのです。これだけなんです。
だからスポーツ医学が強い大学院に行くことを決めたんです。日本国内にはまだまだ本格的に医師が実践するスポーツ医学は少なくて、大学院選びにも苦労しました。
一見近い領域には見えますが、実は整形外科医の手術の知識とスポーツ医学の肝である、手術をせずに治すという技術は全く違うんです。
そのため、これまで9年近く外科医として勤めたにも関わらずまた1から出直しで学びなおしました。
今まで外科医として手術を中心に行っていましたが、離れることによりやはり見えるものもありました。
というのも、スポーツ医学を3年ほど学び、その後再び外科医の仕事を考えた時に、私が手術にこれまで抱いていたような強い気持ちは感じていなかったからです。
ーーこれまで積み上げてきたものとはまた別のことをゼロからやり始めるというのはかなり迷ったと思います。ご自身の人生の中でも一番に近い、思い切った挑戦だったのではないでしょうか
当時は正直苦しかったです。そしてまた、迷いがなかったと言えば嘘になります。ただ、今思うと無駄なことは1つもなかったと思っています。
これから何か新しいことや新しいことに分野を変えてみたいと思う瞬間は多くの人が迷ったり躊躇したり、また他の人は挑戦をしたりしますが、やり始めてみるとやってきたものと少し被っていたり、考え方が今までで得た経験と知識に加え、新しい経験と知識から学んだものから発想をできるため、むしろ強みになるのではないかなと思うんです。
ーーしかし特に決断の際は中々難しいと感じます。もったいないなと思うことや恐怖心などもあったのではないでしょうか
周りからも「なぜこれまで積み上げて作ってきた『安定』から離れる必要があるのか?」「このまま一つのことをやり遂げる方がいいのではないか?」と多数の意見を頂きました。
でも、やはり信じるべきは自分の心で、一度疑問に思ってしまったことをもう騙すことはできないんです。
それはきっとやりたいことや俄然興味があることをやりたいと思った場面でも同じことが言えると思うのですが、自分をもう抑えられないというか。
私の場合は、もう一度立ち返りたいと思った上での決断でしたので、何を言われようとも決断がぶれることは一切ありませんでした。
もちろん、不安も若干ありましたがこの気持ちのまま今の仕事を続けることの方がもっと力も入らないし、本気でやっていないこと自体が患者さんにものすごく失礼です。
だから自分の決断を信じました。
ーー冒頭から感じていましたが、話しているだけで八枝子さんの芯の強さがビジバシ伝わってきます。大学院で学び、どういった気持ちが芽生えたのでしょうか
大学院に入り、スポーツ医学を学び始めると、とても奥が深いものと気付かされました。
これまで、大学を卒業し、外科医になり、国内で働き、スポーツ医学に立ち返ってと、実は自分が欲しいと思っていた経験ができているなと思ったんです。
やっと、中学3年生の頃に思い描いていた自分になり始めているのかなと思っています。
サッカー選手になるにはボールを蹴る練習だけでなく、体も鍛えなければなりません。
そのような基礎と同時に自分だけの強みを作っておかなければいけません。
外科医もそのように、手術だけではなく色んな経験や自分の持ち味を生かした上で自分を披露しなければなりません。
そういった点で色んな知識を身につけた上で考えていくとアプローチの仕方というものが広がり、発想や技術にも応用されていき、これがまさに子供の頃に思っていたものだなと感じています。
ーーそれこそTomomiさんも仰っていましたが自分の強みを複数持っておくことは武器になりますよね
偶然手に入れられただけなのかもしれませんが、本当に幸運を引き寄せたと思っています。
ただ、これだけは言えるなと思うことは、その時その時で、自分が興味を感じることしかやっていないということです。
どれも興味から選んでいるため、間違っているとは感じることは少ないですが、微妙に違っていたり、足りないなと思う部分がたまに現れるんです。
そこで突き詰めて考えていったら、自分がやってきたキャリアと同じ診療科が海外には存在していたのです。
そのため今度は海外にチャンスがあるかもしれないと思ったんです。