門脇 氏:東大医学部卒業後、博士課程にて2年間生物系の研究にたずさわり、その後日本にてIT系スタートアップ、大手セキュリティ会社に勤めた後、社内転籍でカリフォルニアのシリコンバレーの支社へ異動。その後15年間シリコンバレーにて数社でソフトウェアエンジニアとしてサーバー、Webフロントエンド、Androidアプリ開発などをこなす。本人曰く「仕事なので何でも作りますよ。Windowsのデバイスドライバーとか、Linuxのカーネルモジュール、組み込みのファームウェアも作ってた時期もあります」
東大医学部からソフトウェアエンジニアへ
ーー東大医学部を卒業した後、医者ではなくソフトウェアエンジニアとしてのキャリアを築かれていますね。
医師免許は取得していますが、医者になるよりも生物学の研究の方に興味があったため、卒業後は大学院の博士過程で研究をしていたんです。
医学部は6年ある代わりに、卒業後は修士過程というものはなく、直接博士課程になるんです。
そこでは細胞の内部のカルシウム動態の研究をしていました。
でもそれは凄く細かいもので、生物系のバックグラウンドがない人には何を言っても何が言いたいのか分からないというもので、普通の人の生活とあまりにも遠いなと思ってしまったんです。
何がすごいのかを説明するのに1時間くらい掛かる感覚でした。
研究で新しいことが発見できることは楽しかったですし、今これをやっているのは世の中で自分だけだろうということも魅力的ではありました。
しかしやっぱりそこに疑問を感じ、大学院は途中で辞めてしまったんです。
ちょうどその時はインターネットが広がっていくタイミングで、それにつれてみんなEメールという新しい手段で連絡できるようになっているのを見ていて「インターネットってすごいな。面白そうだな」と思ったんです。
偶然、博士で研究している時に、顕微鏡の制御プログラムを書いていたりしていたため、プログラミングのバックグラウンドを持っていたこともありました。また、その経験で自分で作ったものが動くのに面白みを覚えたんです。
例えばHTMLでWebサイトを作った時に、ここをクリックすると表示が出たり別のページに飛んだり。
そういうのが面白いと感じ、エンジニアというキャリアを選ぶことにしたんです。
シリコンバレーに渡米するまで
ーー卒業してからはベンチャーへ入られていますね。いつからシリコンバレーに出ることを考えていたのですか?
ベンチャーに入ったのは、医学部博士中退という少し変な経歴だと普通の会社に入れなかったからです(笑)。
今だったらまた違っていたかもしれませんが、当時はもっと保守的でした。
そのベンチャーは2人ぐらいの小さい会社だったのですが、もう1人のエンジニアの人が医学部中退で、少しバックグランドが似ていたから理解があったということもありました。
しかし、その会社は資金調達などがうまくいかず、結局全員(自分を入れて2人)辞め、それぞれ別のところに行くことになったんです。
その後にセキュリティ系の会社に入ったのですが、その時には既にエンジニアとしてシリコンバレーに行きたいと思っていたので、会社を探す時にシリコンバレーに支社があるところを選んだんです。
そこの会社は社長が外国人だったり、日本、中国、台湾、シリコンバレー、ヨーロッパなど世界中にオフィスがあったので行けるチャンスがあると思ったんですよね。
入社後に分かったことではあったのですが、オフィス間での異動も頻繁でしたので、行ける機会があると思っていました。
結局、2年ほど勤めた後、幸いなことにシリコンバレーに来ることができました。
ただ、社内でのオフィス間の異動は多かったのですが、日本から出て行った人は自分ともう1人の人が初めてという具合でした。
シリコンバレーにあるコンピューターヒストリーミュージアム。コンピューターがどのような変遷を遂げて進化してきたのかという歴史を展示している。
シリコンバレーへ来て苦労したこと
ーーシリコンバレー限らず、海外となると「言語の壁」に苦しむ人が多いと思うのですが門脇さんは英語に対しては不安はありましたか?
研究で多くの英語論文を読んでいたので自信はあるつもりでした。しかし、実際行ってみたらかなり苦労しました。
まず、マネージャーの英語が分からないんです。
なんとなく理解ができる時はいい方で、何を言っているのか全然わからない時もザラにありました。
しかもそのマネージャーは、モゴモゴと話す人だったために余計聞き取りにくかったんですよ。
他の人の英語はある程度理解できることが多かったにも限らず、マネージャーの英語だけは分からないんです。
全然聞き取れないなと落ち込んでいた時に、全社会議のようなものでマネージャーが発表をしていたんです。
発表という、比較的ハキハキ話すだろう場面の時の英語でさえもやっぱり聞き取れなかったので、社内の中華系の人で1番英語がうまいだろうと思われる台湾人(5歳頃からアメリカに滞在)と、テネシー出身のアメリカ人にマネージャーが何を言っているのかを聞いてみたんです。
しかし、その人たちも「分からない」と言っていたんです。つまり、ネイティブでさえも理解が難しい英語の持ち主がマネージャーで(笑)
「アメリカ人でも分からないなら自分は理解できなくても仕方がない」というように思えたのでそこはある意味安心した瞬間ではありました。
しかしいずれにせよ英語には苦労しましたね。
ーー英語のディスアドバンテージを克服するために意識したことはありますか?
基本的には「地道にやった」としか言いようがないですね。
でも小さな目標は決めることはしていました。例えば、ミーティングで必ず1回は発言するなどです。
発言したら自分の中では「今日のミッションクリア!!ミーティング終了!!」と勝手にフィニッシュした気持ちになっていました(笑)
あとは通勤時に車の中で今の仕事の進み具合や、週末にやったことを英語で説明する練習を地道にしていましたね。
でもあとはやっぱり慣れだと思います。慣れてくると2回までは罪悪感なく聞き返せるようになります。
もし分かっていなくても分かったふりをするというテクニック的なところもうまくなります(笑)
ーー15年も住まれていると英語にはもう慣れ始めるのでしょうか
さすがに慣れました。しかしそれでも100%のコミュニケーションはできていないと思っています。
日本語がレベル100だとしたら、おそらくレベル50くらいあればいい方だと思っています。
また、実は仕事上で使う英語ってすごく楽なんですよね。
話題も決まっているため前提が分かる上に、使われる英語も限られているからです。
でも雑談は非常にきついです。なぜならどこからどんな話が出てくるのかがわからないから。
いきなりフットボールの話してたのに軍隊の話が出てくるかもしれないし、あるいは自分が見ていないテレビドラマの話かもしれません。その上、さっぱり分からないというようなことが頻繁に起きます。
そのため、雑談に慣れるのは仕事の話をするよりももっと苦労しましたね。
とは言っても、今でさえもジョークは分からないですし、こちらが言ってもウケてくれないです。
むしろ真顔で聞き返されます(笑)
ーー英語以外に来る前に心配したこととかはありましたか?
車の運転です。
免許は持っていたのですが、東京は電車移動がメインでしたので運転をする機会が少なかったんですよね。
だからこちらでの運転はすごく怖く、中でも車線変更が怖かったですね。
ウィンカーを出しても容赦なく間を詰めてくる人たちもたくさんいますから、高速道路で車線変更できなくて出たい出口で出れなかったりとかしました。
それでもう高速道路に乗るのが嫌になり、下道で帰ろうとして道に迷ったりもしました。
僕が住むサンフランシスコから南の方へ行く場合、電車では90分以上かかりますが、車だと例え渋滞していても55分で到着する。僕自身、2週間南のサニーベールという地域に滞在していたことがありますが、車がないと生活が”できない”と実感しました。
サンフランシスコ市内だったら公共交通機関があるから運転はいらないかもしれないですが、南のエリアは車社会ですからね。
苦労はたくさんあったがビザに一番苦労した
ーーこの15年間で1番苦労したなということというと、何が印象的でしょうか
やっぱりビザですね。最初はL-1ビザというもので来ていました。
アメリカで働くことはできるのだけど、兄弟会社や子会社などの関連会社でしか働けないというビザです。
L-1で最大5年間アメリカに滞在できる予定だったのですが、永住権を申請したのが2003~2004年頃、アメリカへ来てから1年半くらいが経った時でした。
しかもその時はテロの直後でしたのでビザの取得がさらに厳しくなっていた頃だったんですよね。
ビザの取得段階は1,2,3段階と成り立っており、取得までにどのくらい時間がかかるかだいたい予想がつくんです。
計算していくと、第1は2年、第2は1年、第3段階は2年半かかるという予想ができたんです。
しかし、それでは5年で収まらないと焦りました。
最初の申請から1年ほどが経った頃に、弁護士から「おめでとうございます。第一段階の前半が終わりました。これから第1段階の後半にいきます」という連絡が来ました。
「本当に予定通り終わるのか?」と疑わしいくらいの遅さでした。
しかも、第1段階をやっている途中にシステムが大きく変わり、それによって今まで出していた人のものは後回しになる上、バックログ処理センターのようなところにまとめて集められるため、順番もぐちゃぐちゃになってしまうらしく、いつ終わるのかの予測が全くつかなくなってしまいました。
そんな調子だったので、あと1年くらいで帰らないといけないかもねと妻と話していたら、永住権の抽選でたまたま妻が引き当てまして。
それからはビザの問題については考えなくて済むようになりました。
(抽選永住権とはアメリカが多様化を狙って年に1度行っているグリーンカードくじ引きのようなもの。中華系やインド系は既に数が多いので枠は設けられていないが日本人には枠がわずかに設けられている。当選確率は1%を切る。1人年一回しか応募できないが、門脇さんたちは本人、奥さんの2人分出せるので、5年目、二人合わせて10回目に当選した。当選すると本人だけでなく、配偶者と未成年の子供にも永住権が出る。)
ーービザの問題は依然として大きそうですね。こちらにいる日本人の方達はどのようなビザで滞在している方が多い印象ですか?
滞在が長い人は永住権を持っているか、その後さらにアメリカの市民権を取っています。
最近は自分の頃(2000年代前半)と比べるとかなり早く永住権をもらえている印象を受けます。
早い人だと1年以内に取得しているのではないでしょうか。最初のビザは色んなパターンがあります。
自分のように日本の会社からの社内移籍ビザ(L1AかL1B)が多いですかね。
日本から派遣される駐在員はLか、投資家ビザ(E)ですかね。
アメリカの大学を出て就職する場合はエンジニアだとH1Bが多いです。
自分も最初にH1Bビザにする可能性はあったのですが、学部の専門と仕事の内容が違うから、H1Bにできなかったということがありました。
L1やH1Bはビザを持ちつつ永住権が申請できます。
Eは期限がない代わりに永住権の申請ができないということもあります。
H1Bは永住権申請中であれば1年ずつ何回でも更新できるとか、とにかくビザは複雑です。
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